詩編に寄せて 2023年10月
谷川の水を求めて あえぎさまよう鹿のように神よ、わたしはあなたを慕う。わたしの心はあなたをもとめ、神のいのちをあこがれる。わたしが行って み前にいたり、み顔を仰げる日はいつか。わたしは日夜、神を問われて、明け暮れ涙を食物とする。思い起こせば心はたか鳴る。喜び祝う人々の群れ。感謝と賛美の歌声の中を、わたしはみ前に進み出た。
(詩編42:2~5)
この詩編を書いた人は神の不在が重苦しく魂を覆う孤独の中で、多くの仲間とともに打ち揃って巡礼した日々を思い出しています。
私は十代の頃、「人生」という語を用いることができませんでした。人間のいのちが限りあるということが認められず、また、誰か愛する人が現れたとしても死に別れるなどとはとうてい受け入れられなかったのです。人間の分際をわきまえない傲慢なことでした。
そんな私も生きた時間よりも生きる時間が確実に短くなったこの頃、ようやく人生について語れるようになったような気がします。
もちろん、キリスト教の洗礼をうけたことで「いのち」を実感し、喜んで生きる力を得るようになりました。ようやく人生という大海原にこぎ出したのです。ですが、座礁したり遭難しかけたこともあります。今も度々、進むよりか沈みかけているような気がします。
行き先はどこ?目指す港は?人間は「目的」をしっかりと定めることで腹も座ってくると言われます。改めて考えてみると、わたしの人生の目的は「神の国」です。この国は遠いところにあるようで今ここにもあります。
ところで、その国に入るには2つの条件があります。一つは神を知ること。もう一つは隣人を大切にすることです。隣人とは仲間と言うよりも私の存在や助けを必要としている人のことです。つまり、隣人を大切にするとは、その方たちのためにできることを行いながら共に歩むことといえます。
人生とは神の顔を仰ぎ見るために(至福直感)神の望みを行いながら歩むもの。巡礼はその先取りといえるのではないでしょうか。
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